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2010年5月

2010年5月 2日 (日)

使う側のプロトコル

パソコンというコンピュータがインターネットにつながるようになって社会はどう変わったんだろう?

パソコンがスタンドアロンで動いていた時代、パソコンを使った犯罪は今よりずっと少なかっただろう。しかしパソコン通信ができ違法ファイル(著作権、ポルノ)の流通という犯罪が発生した。そして今はインターネットの時代。パソコンはインターネットにつながることが前提になっていて、いろんな利便性を獲得してきたが、その裏ではP2Pソフトでの違法ファイルのやりとりや掲示板上での誹謗中傷・違法行為の助長、オークションサイトでの違法取引など、犯罪者にとって格好の稼ぎどころになっている。「犯罪者」といっても一見すればパソコンを使いこなしているエリートに見えてしまうところがたちが悪い。

このまま政府は無策のまま放置するのだろうか。

インターネットの基礎技術であるTCP/IPのPは"Protocol"の頭文字である。プロトコルをインターネットで検索するといくつかの用法が見つかる。1つはコンピュータ用語であるが、2つ目は外交儀礼上の決まりごととしての「プロトコール」、3つ目は医学関係での投薬や治療の手順である。

日本は島国ということもあり長い間外交に疎い国民であった。コンピュータと違い、国民性なんていうものは一朝一夕に変わるものではなく、鎖国された島国で生息する農耕民族としてのDNAは日本人には染み付いている。だから外交が必要になった今日に外交下手をいろんな局面で示してしまう。例えば韓国との諸問題もそうであろうし、トヨタのアメリカでのリコール問題も上海万博での国旗掲揚の問題も「外交下手」が裏目にでている原因。

外交儀礼というのは法律ではなく守らないからといって罰せられる筋合いのものではないのは事実だろう。しかし守らないと「仲間はずれ」になってしまうものだ。国境がある多くの国では国境紛争がかならずあり、それを解決する場では必ず「プロトコール」を守らなければならないのだが、日本人にはそういう厳しい「ルール」であるという認識が足りないのだろう。医学の現場で「プロトコール」という言葉を使う意味は、その「プロトコール」を守らないと患者を殺してしまう恐れがある、非常に厳格に適用されるべきルールだ、と考えるべきだろう。

振替えってコンピュータのプロトコルを見る時、やはりその厳格さの扱いがどうも日本と諸外国とでは異なるように思われる。諸悪の根源はマイクロソフトとNECだろう。プロトコルを「マナー」レベルで考え、己の都合と競合した時に己の都合を優先する。これは「プロトコール」としてはやってはいけないことなのだが、マイクロソフトのプログラマはそうは考えず「まぁ守れるものは守りましょう」と気軽に考えてきたのだろう。そうして出来上がったInternet Explorerはプロトコルどおりに作成した他のブラウザで正しく見えるものが正しく扱われなかったり、IE以外では正常に閲覧できないサイトが簡単にできてしまう。これはマイクロソフトのプロトコル違反の例だが、NECのパソコンの無線キーボードやマウスは通信仕様が独自であり標準的なプロトコルとしてNECが提供してこなかったため互換製品が作られずキーボードやマウスが故障すると高価な純正品を購入せざるを得なくなる。これはNECという日本の会社がプロトコルを軽視する現われだろう。

かくしてプロトコルを守らないパソコンができあがりプロトコルの苦手な日本人は独自仕様であることを欠点だと思わず喜んで使ってしまう。これは携帯電話のガラパゴス化現象ともリンクしているだろう。

コンピュータリテラシーと称して今は教育現場でもパソコンを教えているのだが、果たしてプロトコルのことをどこまで教えているのだろう?「難しい話だし技術的なことだから利用者は知らなくていい」と判断しているのではないだろうか。

しかし、プロトコルは厳格なものであり、間違ったり無視することは国際社会での仲間はずれを意味することを、単なるパソコンの一技術としてではなく、それこそ国語や倫理社会のレベルで教育すべきではないのだろうか。

そうしてパソコン・インターネットをつうじての「外交」をしているのだ、と考えると、パソコンを利用する側も安易な気持ちでいてはいけないことに気が付くのではないだろうか。

逆に言うと、そういう「プロトコル」に従ってインターネットを利用する以上、利用する側の責任は重大であり、安易に子供が使うべきではない。インターネットを「使う側の」プロトコルが必要なのだ。

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